初めての日

「……なんだか、久しぶりだなぁ……」
 電車に揺られながら、美月はぼんやりと窓の外を眺めた。窓の向こうはすでに薄暗く、見慣れない建物が視界を流れていく。
 家を出て、店長さんに会って、渡された手書きの地図。2つ隣の駅の聖南町。落ち着くまで、店長さんの知り合いの青山さんの家で過ごせばいい、と言われたけれど。
(……追い出されたり、しないかな)
 不安になってきた。

「ここかなあ」
 駅を出て、地図を頼りにたどり着いた場所。表札が「青山」であることを確認し、美月がチャイムを鳴らそうとした瞬間にドアが開いた。出てきたのは、もじゃもじゃした黒い髪と分厚い眼鏡が特徴的な長身の男性。
「やあ、君が美月ちゃんだね。話は聞いてるよ。しばらくどころか好きなだけここで暮らせばいいよ」
 歓迎の言葉を並べながら、男は玄関を出て美月に近づいてきた。美月は男に腕を掴まれ、連れられるまま隣の家の前に立った。きょとんとする美月の横で、男がチャイムを連打し始める。
「うるさい雅也」
 低く気だるそうな声と共にドアが開いた。肩の辺りまで伸びた黒髪に、人形のように整った顔立ち。その瞳は細められ、未だにチャイムを連打する雅也を睨みつけている。
(わあ、きれいな人)
 ぼんやりと見とれる美月の肩を雅也が軽く叩いてきた。
「綺麗な人だろう、今日からこの人が美月ちゃんの家族だよ」
「おい、どういうことだ雅也」
「どういうことって、今言った通りだよ。この子は僕の知り合いの知り合いで美月ちゃんって言うんだけどね、色々あって住むところに困ってるんだ。君今1人だし少しの間美月ちゃんを」
「だったらお前が」
「ひどいなあ君は。こんなに可愛い子に僕と一緒に暮らせって言うのかい。美月ちゃんだって僕なんかより君と一緒に暮らしたいって言うと思うよ、ねぇ美月ちゃん?」
 いきなり話を振られとまどいつつも美月はゆっくりと頷きながら返事した。
「う、うん。私も、この人よりお姉さんの方が……」
「……お姉さん……」
 お姉さんの顔が歪み、雅也が腹を抱えて笑い出した。
「ほら、これで決まりだね。美月ちゃんもそろそろお腹が空いてきただろうし、細かいことは中で食事でもしながら説明するからさ。頼んだよ、お姉さん」

(私、店長さんにそこまで話してたっけ)
 3杯目のカレーを口に運びながら、美月は雅也たちの会話に耳を傾けていた。
 美月が幼い頃に両親や祖母を亡くし、遠い親戚に引き取られた事。今日家を飛び出したきっかけは、そこの父親に当たる人物に首を絞められた事。間違ってはないけれど、妙に詳しい気がする。まるで見ていたかのように話す雅也は、この家の隣に両親と暮らしていて、探偵をやっているそうだ。まー君、と呼んで欲しいらしい。
(それに、達樹……くん。男の人だったんだ……)
 美月がお姉さんだと思い込んでいたこの家の主は、鬼頭達樹という男性。男性だと知った美月は驚きのあまり1杯目のカレーを吹き出してしまった。そのせいだろうか、達樹が不機嫌そうに見える。
「それにしても、よく食べるねえ美月ちゃん」
「ご、ごめんなさい……美味しいからつい……」
「食事は問題無さそうだね。あとは着替えだけど、達樹の家に美月ちゃんが着れそうな服は……無さそうだなあ」
「うう、ごめんなさい……」
 女性と見間違えるくらい華奢な体つきの達樹。美月が服を借りたとしても、胸の辺りでつっかえてしまいそうだ。
「明日には何とかするから、悪いけど今晩はその服で過ごしてもらっても構わないかい」
「うん、大丈夫」

「……あ、いっけない」
 物音で目を覚ました美月は慌てて1階に下りた。朝食の手伝いをしようと決めていたのに、すでに朝食は出来上がっているようだ。
「ごめんなさい、手伝おうと思ったのに」
「別に構わない……」
 達樹の視線を感じ、美月はそっと目をそらした。怒られるのだろうか。
「首……痛むか?」
「えっ、と……大丈夫。全然痛くないよっ」
 朝食をとりながら、美月はまだ少し眠そうな達樹に話しかけた。達樹が仕事に出かける間、美月は留守番をすることになる。留守中にやっておくこと、昼食のこと、達樹が帰ってくる時間を確認した。雅也は朝が弱く、家にやってくるのは昼頃になるらしい。今日こそ晩ご飯を作ろうと美月が決心したとき、玄関のチャイムが鳴った。
「あ、私見てくるねっ」
「おい……」
 何か言いたげな達樹を置いて玄関のドアを開けると、爽やかな笑みを浮かべた、背の高い栗色の髪の青年が抱きついてきた。
「おはようございます達樹さん」
「きゃあっ」
「たつきさ……」
 腕の中にいるのが達樹よりも背の低い女性だと気付いた青年は、慌てて美月から離れた。
「だ、誰ですか貴女はっ」
 美月の目の前で、青年は顔を真っ赤にして視線を泳がせている。不審者だ。いきなり抱きついてきて変な顔をしている不審者だ。
「先輩うるさい」
 眉をひそめた達樹の姿を見つけるなり、不審者の表情が明るくなった。
「あああおはようございます達樹さん、今日もお美しい。ところで、こちらの方はどなたでしょうか?」
 達樹に見せる表情とは打って変わって、冷ややかな視線が美月に注がれる。
「知り合いだ。昨日から預かっている」
「あ、朝野美月、です」
 お辞儀をしてみたが、冷たい視線はそのまま。
「朝野さん、ですか。僕は野田大介です。達樹さんとは親しいお付き合いを」
「親しくない」
 不満そうに達樹が呟く。まだ1日足らずとはいえ、美月が見た達樹の表情の中で一番機嫌が悪そうだ。
「ふざけていないで早く出てください、置いて行きますよ」
「ああっ待ってください」
 だらしない表情で大介が家を出ていく。達樹が「先輩」と呼んでいたということは、あの変な人も学校の先生なのだろうか。
「…………むうぅ」
 なんだかもやもやする。あとで雅也に聞いてみよう。

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