後輩保護計画

 ――そろそろ帰ってくれないだろうか。
 校長室の来客用ソファに腰かけ、八木はため息をついた。向かいには鼻をちり紙で押さえながら時折メモ帳に何かを書き込む「いけめん」がいた。容姿と性格の良さから女子生徒だけでなく保護者の方々からも評判の良い野田先生が、かれこれ30分は校長室に入り浸っている。八木が女でもっと若くて、なおかつ独身だったら嬉しい出来事なのだろうけど、今はとにかく早く話を終えて帰って欲しいと願うばかりだ。
「それで、タツキさんの中学の頃のお友達は……」
「むぅぅ」
 八木はぐったりと肩を落とした。12年くらい前の出来事を延々と語り続けられるほど記憶力は良くない。すでに中学時代のタツキの様子や成績に、あと当時の弟君が孫以上に懐いてくれて嬉しかったことまで話しているのだ。口はもちろんのこと、頭が限界だ。クラクラする。
「友達と言ってものう……弟君の幼稚園のお迎えがあったようじゃから放課後に誰かと遊ぶことはなかったらしいが……とはいえクラスで孤立していたわけではないし、ううむ……確か一緒に帰るお友達はいたような」
「ど、どんな子ですかっ」
「おおぅ、落ち着くんじゃ野田先生。どんな子かと言われても……ああ、男の子だったような気が」
「男の子、ですって!?」
 大介の顔つきが険しくなる。ちゃんと思い出したのにどうして、と八木は泣きたくなった。
「野田先生、そろそろ授業じゃあ……」
「次も授業はありません。それより、その男の子というのは、その……タツキさんの彼氏、なんですか」
「ワシに訊かれてものう。いつも手を繋いで学校に来てたようじゃが、こればっかりは鬼頭君に直接」
「そうですよねっ」
 八木の言葉をさえぎり、大介が校長室を飛び出していく。バタンとドアが閉まり、静寂が戻ってきた。
「うむぅ、疲れたのう」
 ソファにもたれかかり、八木は強く目を閉じた。

「あぁ、それ僕だけど」
「な、何ですって!?」
 大介は目を丸くして叫んだ。
 その、数分前。
 タツキを家に送り、隣の家のチャイムを鳴らした。出てきたのが雅也であることにホッとし、八木から聞いた話を持ち出す。幼馴染みなら何か知っているだろう、とは思っていたが謎の少年の正体があっさりと判明し拍子抜けしてしまった。
「やっぱり貴方、タツキさんと」
「別に付き合ってたわけじゃないんだけどなぁ」
「ならなぜ手を繋いで登下校をっ」
「落ち着いてよお兄さん。鼻水出てるしタツキに聞こえちゃうだろう? 中に入りなよ」
「あああ、失礼しますっ」
 ティッシュで鼻を拭き、大介は雅也の家に上がった。促されて居間のテーブルの前に腰かけると、しばらくして雅也がお茶を運んできた。
「落ち着いたかい?」
「ええ、すみませんでした」
「で、さっきの話だけどさ。お兄さんなら知ってるだろうけどタツキって結構無防備なところがあるだろう?」
「た、確かに。言われてみれば、よく生徒さんのイタズラに引っかかっているような気が」
 大介が少し思い返しただけでもいくつか心当たりがある。警戒心が無さすぎてよく小早川に身体を触られたり女子生徒に後ろからいきなり抱きつかれたりしている。八木に誘われて校長室にホイホイついていくし、酔っていたとはいえ大介の部屋でタオル1枚で熟睡していた時もあった。
「やっぱりまだ治ってないんだ。昔なんてちょっと目を離した隙に知らないおじさんに話しかけられて連れ去られそうになってたからなぁ、それで仕方なく手を繋いで帰ることにしたんだ」
「つ、連れ去られそうに!? 大丈夫だったんですかっ」
「大丈夫に決まってるだろう。それよりお兄さんこそ大丈夫なのかい、すごい鼻血出てるけど」
 雅也に指摘され大介は鼻を押さえた。ティッシュを手渡しながら、雅也は物珍しそうに大介の鼻血を眺める。
「まぁ連れ去られたことなんてないし、今だってお兄さんがいるから大丈夫だよ」

 話を終え雅也の家から出ると、愛車のそばにミツキがいた。きょろきょろと辺りを見回していたミツキが、大介を見つけるなり駆け寄ってくる。
「あ、おにいちゃんまー君の家にいたんだ。姿が見えないから心配したよ〜」
「すみません、青山さんに少しお話があったものですから」
 いつものように笑みを浮かべてミツキの頭を撫でると、嬉しそうな笑顔が返ってきた。
「えへへ。ねーねーおにいちゃん、タツキちゃんもおにいちゃんのこと心配してたんだよ」
「何ですって、タツキさんが!」
 大介は慌ててタツキの家のチャイムを鳴らす。しばらくして出てきたタツキをぎゅっと抱きしめ、頬ずりする。
「あああすみませんタツキさん、心配かけてしまって」
「別に心配なんかしていないです、離れてください」
「ふふ、照れなくていいんですよ。ところでタツキさん、明日から手を繋いで学校に行きませんか?」
「何で先輩と」
「貴女を守る為ですよ」
 大介はタツキから身を離し、両手でタツキの右手を包み込むように握った。
「少しでも目を離すと、貴女すぐにいなくなってしまうそうですから。ふふ、明日からが楽しみです」
「……鼻血、出てますよ」
「ああっそんなっ」
 大介はあわてて両手で鼻を押さえた。すぐそばでは愛しい後輩が冷ややかな目でこっちを見ている。
「……先輩、今日八木先生に何か変なことを聞いたりしてませんか?」
「な、変なことなど何も」
 大介は思わず目をそらす。彼女は知っているようだ、おまけに怒っているように見える。
「八木先生が先輩に質問攻めにあったとか言って、ぐったりしていましたけど?」
「そ、それは……」
 タツキが視線を合わせてきた。嬉しいはずなのに何故か怖い。
「……先輩酷い」
「あの、タツキさん……すみませんでした」
 タツキに負け今日の出来事を正直に話した。時折眉をひそめたりため息をついたりするタツキもまた可愛らしい、と思うと鼻血がこみ上げてきた。
「何でこんなときにまで鼻血が出るんですか」
 眉間にしわを寄せて見つめてくるタツキも愛らしい。大介は出来る限り鼻血をこらえた。が、押さえたティッシュはますます赤く染まっていく。
「すみません……それで、青山さんの話を聞いていると不安になったものですから、貴女と手を繋ごうと思ったんです」
 全てを話し様子を窺うと、彼女は完全に呆れているようだ。
「そんな事しなくても知らない人に声をかけられるヒマなんてないじゃないですか」
「そ、そうですよね」
 大介が車で送り迎えしている今、タツキが外に出るのは家を出て大介の車に乗るまでの間。そこから学校に着くまでは大介の目の届く車の中だし、駐車場は学校の敷地内にあるため校内で知らない人に声をかけられることなんてまず無いだろう。その校内だってタツキの姿は可能な限り目で追っている。よく考えてみたら手を繋ぐ必要などなかった。
「もう、八木先生や雅也に変なこと訊くのやめてくださいよ」
「はい、反省しています。けど貴女今日も校長先生の所に!?」
「八木先生は嫌らしいことなんかしませんっ」
 相当校長の事を尊敬しているようだ、羨ましくて悔しい。正直知らない人よりも校長の方が危ないように思えてきた。
「とにかく、手を繋ぐだなんてふざけた事もう言わないでくださいよ。昔とは違うし、先輩だっているし」
「えっ?」
 大介が聞き返すと、タツキは口をつぐんだ。
「ふふ、そうですね、僕がいますからね」
「そういう意味じゃなくて」
「今日は本当にすみませんでした。わざわざ手を繋がなくても、僕達ずっと一緒ですもんね」
「もう帰ってくださいっ」
 大介を玄関から押し出し、タツキはドアを閉め鍵をかけた。

 本当に何を考えているのだろうか、あの男は。
「知らない人より先輩の方がよっぽど怪しいのに」
 授業中はさすがにないが、休み時間や放課後、最近では校長室に行く時まで視線を感じる。大介がちょくちょく視界に映りこんでくるような状況でタツキに声をかけさらっていくような人物がいるのなら逆に見てみたいくらいだ。
 もう考えないようにしよう。そう思い夕食の支度を始めると、玄関のチャイムが鳴った。しばらく放置してみたがチャイムは鳴り止まない。
「タツキちゃーん開けてよー」
「ミツキ!?」
 慌てて玄関のドアを開けると、ミツキが抱きついてきた。
「ひどいよタツキちゃん」
 ミツキが甘えるように、胸に顔を埋めてくる。いつの間に外に出ていたのだろう。
「おにいちゃんといちゃいちゃして僕のことなんか忘れてたんでしょ?」
「そんな事ない、というか先輩といちゃいちゃなんかしてない」
「ホントに〜?」
 ミツキが大きな目で見つめてくる。
「でもおにいちゃん、ずっと一緒だって言ってたじゃん」
「聞いてたの!?」
「だっておにいちゃん声大きいんだもん」
 ミツキはいたずらっぽく笑い、タツキの耳に顔を寄せて囁いた。
「ねーねー、さっきおにいちゃんとチューしたの?」
「してないっ、こらミツキっからかうなっ」
「えへへ、僕宿題あるから」
 頬をつかもうとするタツキから素早く離れ、ミツキは自分の部屋へと走って逃げた。

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