先生とお泊り

「むう、どうしたもんか」
 校長室の椅子に腰掛け、八木はため息をついた。そばでは孫の小早川武が唇を尖らせて正座している。授業を抜け出して校内をうろついているところを無事捕獲し、ここへ連れてきたのだ。これはまあ、よくある事なのだが。
「武、やっぱり1人は嫌じゃろう?」
「うるせー、じいちゃんの家に泊まるくらいなら1人で過ごすわ」
 孫の攻撃的な言葉を受け八木は唇をへの字に曲げた。息子夫婦、つまり小早川の両親が仕事で今夜は家にいない。中学2年生なら1晩くらい1人で過ごしても問題ないのだろうけど、やっぱり可哀想だし寂しいだろうしこういう時くらいおじいちゃんを頼りにして欲しい。寂しいのは武じゃない、おじいちゃんなんだよ。
「でも寂しいじゃろ、おじいちゃんがたくさんお菓子用意しておくから」
「やだよ。あーそうだ、じじぃなんかよりタツキちゃんの方がいいな」
「鬼頭く……先生だと!? ダメに決まっとるじゃろう、若くて綺麗な女の人と一緒に過ごすなんておじいちゃん許さないぞ」
「タツキちゃんだけじゃなくて弟だっているんだしいいじゃん。俺仲良いしお願いしてこよっと」
「こら待ちなさい武、まだ授業中じゃろう」
 祖父の制止を無視し、小早川は校長室を飛び出していった。祖父や他の教師達に見つからないように廊下を駆け回り、職員室や教室を覗き込み、ついに理科室でタツキを発見した。
「やっぱ可愛いなータツキちゃん」
 気付かれないよう様子を窺い、授業が終わるのを待つ。チャイムが鳴り、生徒が教室から出てきたところで小早川は理科室に入った。
「タツキちゃん」
 タツキの手を引き、隣の理科準備室に連れ込む。
「小早川……ちゃんとさっきの授業受けたの?」
「それよりお願いがあるんだよきいてくれっ」
 ぎゅっとタツキに抱きつく。あったかくて気持ちいい。
「どうしたの」
「あのさっタツキちゃん、家に泊めてくれ……ください」
「ダメです」
 即答だ。
「ええーっ何でだよー、今日親いないから俺一人ぼっちなんだぜー」
「おじいちゃんがいるでしょ」
「うっ……」
 小早川は顔を上げ、目を潤ませてタツキを見た。
「だってじいちゃんうるさいししつこいしゆっくり出来ないんだもん……それにタツキちゃん友達じゃん」
「と、友達なら稲村先生がいるでしょ」
「純ちゃん家は姉ちゃん達が怖いって言ってたぞ、だからさ」
 今にも泣き出しそうな声を出してタツキに抱きつくと、彼女が動揺しているらしいのがわかった。
「……小早川、わかったから」
 身体を引き離され思わず顔を上げると、目の周りをハンカチで拭ってくれた。
「校長先生と話してみるから。だからちゃんと次からの授業には出ること」
「お、おう」
 顔が熱い。どうしたんだろう。
「一緒に教室に行こうか?」
「ひ、一人で行けるよっ」
 ぶっきらぼうに返し小早川は理科準備室を飛び出していった。

「……というわけなんですが」
「うむぅ」
 校長室のソファに腰かけ、八木はうなった。向かい側のソファにはタツキが座っている。
「武が言うのならそうしてやりたいが……鬼頭君のような若くて綺麗な女の先生の家に泊めるのはなぁ……」
 八木はタツキに視線を注いだ。整った美しい顔を眺め、そのまま胸を素通りし、脚をじっと……。
「先生っ」
「し、失礼」
 八木は目をそらした。怒ってる。ごめんなさい、本当にごめんなさい。
「しかし鬼頭君、君は一体武に一体何をしたんだね。そんなに懐かれて」
「何、って」
「例えば……色仕掛けとかかのぅ」
「そんな事してません!」
「……ごめんなさい」
 もう余計なことは言わないでおこう。でもうらやましいのだ。元教え子の彼女に抱きつく孫の姿を見ていると胸がきゅんと締め付けられる。昔みたいに、「おじいちゃんだいすきー」と言って抱きついてくれないものだろうか。
「むぅ、ワシも鬼頭君みたいに武に懐かれていればのぅ。どうかね、いっそのこと鬼頭君もワシの家に来ないかの」
「なっ……」
 タツキとは違う方向から声が聞こえてきた。2人は顔を見合わせ、そっとその方向を見た。
「……先輩」
「野田先生、か」
 校長室の入り口のドアが少し開いていて、そこから栗色の髪の毛が見える。
「ははは……」
 気まずそうに微笑みながら大介が部屋に入ってきた。
「何やってんですか先輩」
「タツキさんが校長室に入るのを見たものですから。最近校長室に入り浸っているようですし、校長先生に何かいやらしい事でもされているのではと心配になって」
 八木はうつむいた。いやらしい事をするつもりで校長室に呼んだわけではないが結果的にそういう風に捉えられてもおかしくない事をしてしまったわけで、見事に返す言葉が見つからない。
「そしたら案の定、いやらしい目でタツキさんの事を見てましたし失礼な質問まで……っ! ひどいですよ校長先生、タツキさんが色仕掛けなんてするわけありません!」
 小さくなった校長を責める大介を、タツキは醒めた目でにらみつけた。
「先輩、いつから見てたんですか」
「貴女が校長室に入っていく前からですよタツキさん!」
 大介はソファに腰かけているタツキに近づき、手を握った。
「タツキさん、どうせなら僕の家に泊まって下さいよ。あの日以来全く来てくれなくなって寂しいんですよ」
「お断りします。それに先輩、別に校長先生はいやらしい事なんてしてないですよ。というかするわけないじゃないですか、私の中学の時の担任ですよ」
 もっと言ってくれ、と言いたげな表情で八木がタツキを見ている。
「タツキさんの……中学……」
 大介の顔が赤くなる。タツキは先にティッシュを手渡した。
「ああすみません」
 しばらくして鼻から流れ出した鼻血を大介はティッシュで拭った。
「……先生、さっきの話ですけど。小早川と野田先生も仲が良いみたいですし」
「……うむ、誰も来なくて寂しいらしいし」

「おい、何で俺が野田っちの家に泊まらなきゃいけないんだよおかしいだろうっ」
 大介の車の後部座席で小早川はふてくされていた。祖父である八木から話を聞いた小早川は、迷わず自宅で1人で過ごす選択をした。しかし両親は祖父の家に預けるつもりだったらしく家にカギがかかっていた。先に車を降りたタツキに縋り付けば良かったのだろうけど、「ちゃんと野田先生の言う事を聞くように」と約束してしまった以上仕方がない。まぁじじぃの家にいるよりはマシだろう。
「あーあ、俺タツキちゃんと一緒に寝たかったなー」
「僕だって久し振りにタツキさんと2人きりで過ごしたかったですよ」
「えっ」
 久しぶりに? 2人で?
「何だよ野田っち、野田っちのくせにタツキちゃんとそういう関係なのかよ」
 小早川は後部座席から身を乗り出した。早くハゲねーかな野田っち。
「別にそういう関係ではなくて。あの日はタツキさんが酔っ払って」
「あーあの酒臭かった日か」
 抱きかかえてみたら意外と軽かったな、あの日のタツキちゃん。
「さ、着きましたよ」
「はーい」

 何か水っぽい気がしたけど野田っちの作るカレーは美味かった。イケメンで料理が出来て評判良くってモテるとか本当ハゲればいいのに。
 あとタツキちゃんが野田っちのことを「先輩」と呼ぶのは2人が同じ大学に通っていたからだとか。その時に一目惚れしてからずっと、野田っちはタツキちゃんのストーカーをやってるらしい。いい加減諦めたらいいのに。
「野田っちと寝るのかよつまんねー。タツキちゃんの匂いしないかな」
「さすがにお布団は洗いましたよ、お酒臭かったので」
「何だよつまんねー」
 小早川はふと顔を上げた。ベッドのそばの写真立てが目に入る。
「何だこれ。もしかしてタツキちゃんの彼氏?」
 手にとってみると、タツキと知らない男性がが写っている。
「ああ、その人は僕の友人です。いつの間にかタツキさんの家に住み着いてっ……」
「ふーん」
 小早川は写真の中の男をじっと見つめた。くせ毛のある金髪に幼い顔立ち……。
「野田っち、この人なんか純ちゃんに似てね?」
「言われてみれば……」
「やっぱ純ちゃんなんだよ、タツキちゃんの好きな人」
「そんなっ」
 一応眠るには眠ったが、隣で大介がうめいたり鼻をすすったりでうるさかった。
「泣くなよ野田っち」
「泣いてなんかないですっ」

 翌朝。タツキの家の前で、大介は大きく深呼吸をした。小早川は車の後部座席ですやすやと眠っている。彼くらい呑気になれたらいいのに。
 昨日の小早川の言葉にショックを受けてしまったが、彼女にそれを悟られてはいけない。もう一度深呼吸をし、震える指でチャイムを鳴らす。しばらくしてドアが開き、彼女が顔を出した。
「タ、タツキさん。おはようございます」
 いつものように挨拶すると、彼女が眉間にしわを寄せた。
「……どうしたんですかタツキさん、顔が近いですよ。まさか僕とおはようのキスを」
「違います……先輩、目が赤いです」
「な、き、気のせいですよ」
「赤いです」
 タツキは手を伸ばし、大介のまぶたをこじ開けた。
「やっぱり赤い。先輩、もしかして小早川に何か嫌がらせでも……」
「小早川さんは何も悪くありませんよ。ああタツキさん、心配して下さるなんて嬉しいです」
 昨日のショックが吹き飛んでいく。大介はタツキに抱きついた。
「何するんですか、学校行きますよ」
 大介を押しのけ、タツキは車に向かう。
「そうですね、一緒に行きましょうか」

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