休日は映画に

 黒板の落書きを消し、窓の戸締りも確認してタツキは放課後の静まり返った教室を出た。隣の教室はもう戸締りを終えたらしく、毎日タツキにつきまとってくる先輩の姿も見当たらない。職員室に向かって歩いていると、後ろから走ってくるような足音が聞こえた。
「タツキちゃん待ってー」
 振り返ると、生徒の小早川武が駆け寄ってきた。小早川はタツキの身体にぎゅっと抱きつき、タツキの胸に顔を埋めた。
「小早川? どうしたの?」
 これまでに何度か抱きついてきた事はあるが、こんなに強く抱きしめてきた事はない。表情も見えず、何かあったのではないかと不安になった。
「嫌なことでもあったの?」
「ん、別に。タツキちゃんってさ、言うほど貧乳じゃないよなーって」
「こら、小早川」
 身体を引き離して歩き出すと、小早川が後をついてきた。
「待ってよ俺相談したいことがあるんだよー」
 無視して職員室に着いてもまだ、小早川はついてくる。
「タツキちゃんさっきはごめん、俺すげー深刻な悩みがあんだよ助けてくれよー」
「……深刻な悩み?」
「そ、深刻。マジやばいの。ね、助けて」
 席に着いたタツキの隣の椅子に腰掛け、小早川はタツキに頭を下げた。
「そこ野田先生の席」
「いーじゃん今野田っちいないし。ねータツキちゃん、今度の土曜日ヒマ?」
 小早川が目を輝かせてタツキを見つめる。小さく頷くと、きらきらした目が大きく見開かれた。
「やったー、あのさタツキちゃん、映画観に行こーぜ」
「……それが悩みか、一人で行け」
「だってこの辺映画館ないじゃん。一人で校区外に出ちゃダメなんでしょ、だからさ、一緒に行こ」
 甘えるような上目遣いで見つめられ、タツキの脳裏に弟の姿がチラついた。
「う……お、親と行けばいいだろう」
「忙しいって言って連れてってくれないんだぜ、せっかく前売券あるのにさー」
 口をとがらせた小早川が鞄から券を取り出す。何か動物らしきキャラクターが中央に写っていてアニメのようだが。
「何これ」
「えー何だよしらないのかよー、すっげー面白いのに」
「うん、知らないから観に行かない」
 小早川をからかってみると、彼の顔色がさっと変わった。
「ご、ごめんよちょっと馬鹿にして。お願いだから一緒に行こー」
 小早川の目にうっすらと浮かぶ涙。
「……映画観終わったら、すぐにまっすぐ家に帰るんだぞ」
 どうしても厳しくなれない自分がいた。
「タツキちゃんありがと、今週絶対遅刻しない」
 小早川がぎゅっと抱きついてきた。
「出来れば来週以降も遅刻しないで欲しいんだけど」
「なるべく頑張ってみるー……あ!」
 顔を上げた小早川の目に、映画のキャラクターが映った。タツキの肩越し、3つほど席をはさんだ先にあるカバンに、あのキャラクターのキーホルダー。
「おーいジューンー」
 小早川が叫ぶと、カバンの持ち主が驚いた様子で辺りを見回す。
「あ、鬼頭先生に小早川君……だっけ?」
「純ちゃんそれ」
 純ちゃんと呼ばれた、パーマのかかった金髪に気の弱そうな表情の男は、小早川の指差す方向を見て顔を赤くした。
「好きなの、それ」
「……うん」
「じゃー純ちゃんも土曜日に映画見に行こうぜ」
「えっ……土曜日ってことは、えっと、鬼頭先生も」
「うん、俺とタツキちゃんと純ちゃんとで映画観ようぜ、皆で観れば楽しいと思うし」
 髪の毛をいじりながらしばらくの間視線を泳がせたのち、純はゆっくりと頷いた。
「っしゃー、土曜日楽しみー」
「こら小早川、稲村先生にタメ口使わないの。あと早く離れて」
「いーじゃん俺と純ちゃん仲良しだもん。それに俺とタツキちゃんも仲良しだしぃ」
 小早川がタツキの胸に顔をうずめると、そばで黄色い悲鳴が上がった。
「やっだー小早川君、タツキちゃんと仲良いんだー」
 奥野めぐみが目を光らせながら近寄ってきた。
「でもダメよぉ、タツキちゃんは野田先生とラブラブなんだからぁ」
「ラブラブなんかじゃない」
「またそんな事言ってー。何照れてんのー」
 タツキの反論を軽く受け流し、めぐみはうっとりとした表情でまくし立てた。
「この前お泊りデートしてたじゃない、それに毎日行きも帰りも一緒でしょー。これで付き合ってないほうがおかしいわよぉー」
「ふえぇぇ……」
 純が口を開いたまま固まった。その反応にめぐみのテンションが上がる。
「やっだぁ、純君知らなかったのぉー」
 話したくて仕方がない、といった様子のめぐみを小早川が制する。
「タツキちゃんと野田っちが付き合ってるワケないじゃん、タツキちゃんが否定してるんだし。俺はタツキちゃんの言ってることを信じるぞ」
「小早川……」
 タツキが小早川の頭を撫でると、小早川の顔が赤くなった。
「じゃ、俺もう帰るからなっ、明日ちゃんと遅刻せずに来るー」
 タツキから離れ、職員室を飛び出す。
「うーん、やっぱもうちょっと調べてみた方がいいみたいねー」
 腕組みをしためぐみが意味ありげに笑みを浮かべた。

「ではタツキさん、また明日」
「わかったから離れてください先輩」
 顔を近づけてくる先輩から逃れ、タツキは家の中に入った。玄関の鍵はかかっていたし、玄関には靴もない。ミツキはまだ帰ってきていないようだ。先輩が帰ったのを確認し、夕食の支度を始める。しばらく経つと玄関のドアが開く音がした。続けて廊下をバタバタと駆ける足音。
「タツキちゃんただいま!」
「おかえり」
 ミツキはニコニコしながら、台所にいるタツキの側に駆け寄った。
「ねぇ、僕も手伝おうか?」
「いい。早く手を洗って宿題でもやってなさい」
「はーい」
 足音が遠ざかっていく。
 以前泊まりに来た先輩が何を吹き込んだのか、どう説得したのかは知らないが、それ以来ミツキが駄々をこねたり暴れたりすることはなくなった。反省してくれてはいるみたいだが、まだ姉離れするには時間がかかるようだ。
 出来上がった料理をテーブルに運び名前を呼ぶと、すぐにミツキがやってきた。
「わあ、おいしそうな唐揚げ」
 席に着き唐揚げを口に運ぶミツキを見て、タツキも食事を始めた。
「タツキちゃん、あのねっ」
 ミツキが学校であった出来事を話す。部活のこと、友達の何とか君と一緒に遊んだこと、それに……。
「そうだタツキちゃん、今日こそ一緒にお風呂に入ろっ」
「……ミツキ、もうすぐテストじゃなかったっけ……?」
 それまでニコニコしていたミツキの表情が一瞬で変わり、気まずそうにタツキから目をそらす。
「勉強、してないよね」
「うっ……タ、タツキちゃんが一緒にお風呂に入ってくれたら頑張るよっ」
「何気持ち悪いこと言ってるの、変態」
「へ、変態じゃないもん、僕はただタツキちゃんともっと一緒にいたいだけだもん」
 まだまだ甘えん坊なところは治らないようだ。潤んだ目でこちらを見てくる。
「じゃあ、勉強頑張るからタツキちゃん一緒に寝よっ」
「……本当に頑張るの?」
「うん、頑張る。土曜日だって日曜日だってちゃんと勉強するよっ、だから」
 ミツキが語気を強める。わざわざこんな約束なんかしなくても、最初からこれくらいやる気を出してくれればいいのに。
「そう。じゃあ土曜日は留守番もお願いね」
「ええっ、タツキちゃんどこか行くの?」
「映画」
「わあ、いいなー。僕も行きたい〜」
 甘えた声でタツキに言うが、彼女の反応は薄い。
「お勉強頑張るって言ったでしょう?」
「でも行きたいー。お兄ちゃんとデートだなんてずるいー」
「デートじゃなくて生徒の付き添い。それにアニメだし。
 映画のタイトルを告げると、ミツキの表情が明るくなった。
「知ってる、僕も見たーい」
 小早川は、皆で見たほうが楽しいとは言っていたが。
「ついていっていいか訊いておくから、ちゃんと勉強しなさい」
「うん!」
 ミツキが笑顔で頷く。

「タツキちゃん可愛いよ」
「そう?」
 ミツキと手をつなぎ、タツキは待ち合わせ場所である中学校へと向かった。
 家を出る前にミツキに止められ、可愛くないからといつもの服を脱がされ、無理矢理着させられたワンピース。そういえば誕生日にミツキが買ってくれた服だっけ。
「ねぇ、あの人かな」
 ミツキが指差す方向、中学校の校門にいる金髪の少年。間違いなく小早川だ。
「あ、タツキちゃん」
 2人に気付いた小早川が声をかけてきた。近づこうとして足を止め、じっとこっちを見ている。
「小早川?」
「あ、タツキちゃん……なんか可愛いな」
「ほらね、似合ってるんだよ」
 ミツキがタツキの腕にすり寄った。
「……えっと、この人がタツキちゃんの弟?」
 小早川はしばらくの間ぽかんと口を開けてタツキを見つめていたが、ミツキに気付くと慌てて彼に視線を向けた。
「そう。弟のミツキ」
「えへへ、よろしくね」
「お、俺は小早川武、って言います」
 最初はぎこちなかったが、映画という共通の話題のおかげか小早川とミツキはすぐに打ち解けた。
「あれ、純ちゃんじゃね?」
 ミツキとの会話を止め、小早川が手を振る。その先には白いワゴン車。
「わぁ、大きい車」
「ごめんなさい、遅くなっちゃって」
 ドアが開き、泣きそうな表情の純が出てきた。
「全然大丈夫。それより純ちゃん意外だな、こんな大きい車に乗ってるなんて」
「うん……僕いつもお姉ちゃん達を乗せなきゃいけないから……」
 ああこき使われているんだな、とは皆言わない事にした。

 何が何だかわからない。
 タツキがうとうとしている間に、映画は終わってしまったようだが。
「ねーねータツキちゃん、面白かったよね!」
 満面の笑みを浮かべたミツキと、
「すげー感動したっ!」
 目を輝かせて興奮している小早川と、
「ううっ……」
 泣きじゃくる純と。
 睡魔に襲われる前に、可愛らしい男の子とその友達の女の子、あとロボットみたいなのも見たような気がするが、3人の反応通りの面白くて感動できて泣ける話だったようには思えなかった。
「タツキちゃん、グッズ見てくるね」
「俺もー」
 少年2人が駆けていく。
「稲村先生、どこかに座って落ち着いた方が」
「うん……ありがとう」
 涙を拭いながら純は歩き始めた。が、何かにつまずき転びそうになった。
「わわっ」
「稲村先生こっちです」
 あきれたタツキは純の腕をつかみ、空いているベンチに連れていった。
「ありがとうございます鬼頭先生……優しいんですね」
 普段から姉に虐げられ続けている純には、タツキの何気ない行動がとても素晴らしいものに見えた。感動のあまり涙がこぼれる。
「もう泣かないでくださいよ、こっちが泣かしたみたいじゃないですか」
「あ、ごめんなさい」
 純は慌てて涙を拭うが、その度に目から涙がこぼれ落ちていく。
「ほら、もう映画終わったんですから」
 純にハンカチを渡し、背中をさすってやると、落ち着いたのか純の身体の震えが止まった。
「すみません、迷惑かけちゃって」
 ハンカチで涙を拭き、顔を上げる。どう見ても目の周りや鼻は赤いままだ。そのせいかただでさえ幼い顔つきが余計に幼く見える。
「あ、ハンカチ……ちゃんと洗って返しますからっ」
 濡れたハンカチを握り締めた純が、ほんの一瞬驚いた表情を見せた。と同時にタツキの視界を誰かの手が遮る。弟の名前を呼ぼうとしたとき、かすかに香水の匂いがした。
「……先輩」
「ああっさすがですタツキさん」
 視界が明るくなり、振り返ると大介がいつもの笑みを浮かべてタツキを見つめていた。
「どうしてここにっ」
「貴女こそどうして。僕に黙って他の方とデートだなんて」
「デートじゃない」
「はたから見れば立派なデートですよ、そんなに寄り添って……」
 タツキと純はそっと距離を置いた。泣く純を落ち着かせるうちにこんなに近づいていたとは。
「それにしても、あああっ……タツキさん、なんて可愛らしい姿……」
「鼻血出てますよ先輩」
 慌ててティッシュを取り出す大介のそばで、純はポカンと口を開けていた。
 ――カッコ良くて誰にでも優しくて授業の評判も良いし、女子生徒だけじゃなくて保護者の方にも人気なのよ、純君も野田先生みたいな素敵な先生になるのよっ!
 以前めぐみがそう言っていたのを思い出した純。確かに大介は純にも優しく接してくれたし、純とは違ってしっかりとした大人の男性だ。当然純自身も大介に対して憧れを抱いていた。それなのに。
「タツキさん、今度はその格好で僕とデートしましょう」
「嫌です離れてください」
 ティッシュを鼻に詰めたままタツキに抱きつき頬ずりする大介の姿は、純の憧れている大介とは遠く離れていた。
「野田先生……やっぱり噂通り鬼頭先生と……」
「嘘だっそんな噂信じないで下さい、それ奥野先生が勝手にそう思い込んで言いふらしてるだけですよ」
「そーだそーだ、タツキちゃんがこんなに嫌がってんだからデマに決まってるだろっ、離れろよ野田っち」
 戻ってきた小早川が大介の身体を引っ張る。
「出てきましたね小早川さん……最近タツキさんにベタベタくっついているようですが、タツキさんは渡しませんよっ」
「野田っちこそタツキちゃんにストーカーするのやめろよっ」
 ――野田先生とタツキ先生、付き合ってるっぽいけど最近小早川君の動きも気になるのよねー。
 火花を散らす2人のそばで、純の脳裏にはめぐみの言葉がチラついていた。

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