貴女の為に

「…………」
 タツキは目を覚ました。何故だか頭が痛い。起き上がろうとして初めて、タオル一枚の格好であること、部屋の配置が大きく違うことに気が付いた。おまけに後ろから抱きつかれているらしく、腰の辺りには誰かの腕があった。
「……ミツキ?」
 弟の名を呼び腕を軽く払いのけようとした途端、タツキを抱く腕に力がこもった。
「……っ」
 結構強い。よく見ると、弟の腕にしては少し太いような気がする。
 弟以外でこんな事をする奴といえば……一人しかいない。
「おはようございます、タツキさん」
 丁寧な言葉遣い、優しげな声音。
「先輩……」
 振り返らなくても、爽やかな笑みを浮かべた先輩の顔が頭に浮かぶ。しかも、腕から伝わる感触が正しければ、相手は全裸のようだ。女生徒やその母親達なら頬を染めて喜びそうなシチュエーションだが、タツキにしてみれば気持ち悪いとしか言いようがない。
 ……誰が好き好んでコイツなんかと。
 見た目の良さに騙されてはいけない。こう見えて重度のストーカーなのだ、この男は。
「タツキさん、温かいですし髪いい匂いしますねー」
 タツキの長い黒髪に顔をうずめ、嬉しそうな大介。タツキは振り返ろうとしたが、大介の栗色の髪がちらちら見えるだけで彼の表情まではわからない。
「結婚したら毎日こうやって温もりを感じられるんですね……」
 やけに荒い大介の息がかかり、タツキは鳥肌が立った。
「ああタツキさん……好きです、結婚してください」
 ――気持ち悪い。
 頭痛に吐き気が加わり、タツキは思い切り大介を突き飛ばした。ベッドから転げ落ちる大介(鼻血つき)を見て、さらに吐き気。
 やばい、何か変なモノが出てきそうだ。それに頭がガンガンする。
 込み上げてくる吐き気をこらえ、タツキは大介に言い放った。
「最低だな先輩。本物の変態だったんですね」

 数分後。
 鼻にティッシュを詰め、男前を台無しにした大介(腰にタオル一枚)が必死でタツキに訴える。
「変態は誤解ですよ。信じてください」
「何が誤解だ。毎日しつこく付きまとってくるくせに。人前で抱きついてくるの、やめてもらえませんか先輩」
「迷惑でしたか……すみません。人前じゃなきゃいいんですよね?」
 両手を広げ、大介はタツキに抱きついた。腕の中で、タツキはため息をつく。
「で、これはどういうことですか?」
 冷たい視線を送ると、大介の鼻に詰まったティッシュが赤く染まっていった。
「落ち着いてくださいタツキさん……僕の家に来たのは貴女ですよ? ミツキさんと喧嘩したから、って」
 タツキは昨日のことを思い出そうとしたが、記憶がごっそりと抜け落ちていて思い出せない。いつ、弟と喧嘩なんてしたのだろうか。
「その格好だって、貴女が勝手にお風呂に入ってそのまま眠ってしまったからなんですよ。飲めないくせにお酒まで飲んでましたし」
 頭痛と吐き気の原因は、どうやら酒のせいらしい。口元を押さえ、タツキは大介を見た。
「……で、先輩はどうして全裸なんですか」
「僕いつもこれで寝ているんですけどねぇ……変ですか?」
「変です」
「そうですか……」
 落ち込んでいるのかいないのかわからないようなため息をつき、大介は服を着始めた。
「じゃ、貴女と結婚するまでに直しておきます」
「誰が結婚なんかするか」
「着替えないんですか?」
「着替えるから見るな」
「別にいいでしょう、貴女は僕の未来の妻なんですから。貴女だって僕の着替えを見てたじゃないですか」
「先輩が勝手に目の前で着替えてただけでしょう、こっちを見るな変態」
 タツキは大介に蹴りを入れた。

「だから、僕は貴女に何もしていません! 信じてください!」
「誰が信じるかボケ。先輩なんて大っ嫌い」
 大介の愛車はタツキを乗せて鬼頭家へと向かっていた。「昨日と同じ格好で先輩と登校なんかしたくない」というタツキの意見で。
「信じてくださいよ。なんなら賭けますか? 僕が本当に貴女に手を出していないと証明できたら、貴女僕と結婚してください」
「…………信じます」
 おそらく本当なのだろう。結婚と言った時の語気に力が入っていた。
「わかってもらえて嬉しいです」
 大介が満面の笑みを浮かべる。変な奴だ、とタツキは思った。
「着きましたよ」
 タツキが家の中に入った瞬間、
「タツキちゃん!」
 年の離れた弟、ミツキが抱きついてきた。鼻をすすりながらタツキの肩に顔を埋める。
「うわあああん、タツキちゃんごめんなさい」
「わかったから泣かないの。着替えてくるから離れて」
 弟を引き離し、タツキは自分の部屋へと向かった。
「あ、おにいちゃんだ」
 ミツキはいつも姉の送り迎えをする男の存在に気付き、涙を拭って笑顔を見せた。
「お義兄ちゃんですか……よくわかってますね」
 人好きのする笑みを浮かべ、大介はミツキを見た。

「痴話ゲンカに僕を巻き込まないでくれないかい?」
 タツキが着替えている部屋に、幼馴染みの雅也が入ってきた。
「別に巻き込んでなんかない。見るな」
「ミツキ君昨日から一睡もしていないんだよ。それにキミの着替えなんか昔から見ているから特に何とも思わないよ」
 大介がきけば嫉妬してしまいそうなセリフを吐き、雅也はタツキから目を逸らした。
「彼氏といちゃつくのもいいけど、ちゃんとミツキ君に構ってあげなよ? あの子にはもうキミしかいないようなものなんだからさ」

「あらぁ、二人とも遅かったじゃない。何かあったの?」
「あ、めぐさん。おはようございます」
 めぐみはタツキを見てニヤリと笑った。
「タツキちゃん、具合悪そうね……」
 めぐみのいわんとすることを察知し、大介は慌てて否定した。
「僕は何もしていませんよ。タツキさん、弟と喧嘩してお酒飲んじゃったみたいなんです」
「あらあら。タツキちゃん飲めないんでしょ? 大丈夫なの」
「大丈夫だ……」
 ボーっとした顔でタツキは答えた。
「ねえ、休んだ方がいいんじゃない?」
「……大丈夫だ」
「ホントに大丈夫なの〜?」
「……うん」
「タツキさん頑固ですからね、そっとしておいてあげてください」
「耳元でうるさいです先輩」
 肩にさりげなく置かれた手を払い、タツキは自分の机についた。

「せんせ危ないから実験やめて自習にしてよー」
 やる気の無い2年1組メンバーが口々に担任に言う。
「だめだ」
 首を横に振るタツキだが、顔色が悪い。
「自習〜〜」
「せんせ、給食俺が代わりに食うから」
 クラス1の大食い少年、小森が手を挙げて自己主張する。
「小森はいつも余分に食ってるじゃないか」
「でも大丈夫ですまだ食えます」
「とりあえず保健室行こうぜタツキちゃん」
 小早川がタツキの身体を抱える。
「やめろ小早川」
「タツキちゃん酒臭い〜」
 タツキを大事そうに抱きかかえ、小早川は理科室を出る。
「あ、そうだ。お前ら自習な。俺の給食残しといてよ」
「……行っちゃった」
「小早川君授業サボるつもりなんだね」
「小早川君せんせ襲うつもりなんだね」
「小早川君せんせのこと好きなんだね」

「降ろせ、小早川」
「あんまり暴れないでよタツキちゃん」
「タツキちゃんって言うな」
「めぐさ〜ん、病人」
 保健室に入ると、めぐみは雑誌を読んでいた。
「あらタツキちゃん。やっぱり休んだ方がいいわねぇ。熱はかるわよ」
 うふっ、と笑い必要以上にタツキのブラウスの胸元を開けて、めぐみは体温計を突っ込んだ。
「……あ!」
 タツキの胸元を覗き込み、小早川が奇声を上げる。
「どーしたの小早川君。見ちゃダメよ、タツキちゃん意外と胸あるんだから」
「別に見てねーよ」
 数分後、めぐみが体温計を取り出す。普段のやる気の無さそうな様子とは打って変わって、慣れた手つきでてきぱきとタツキを診ている。なんだめぐさん、やれば出来るんじゃん、と小早川は思った。
「…………あらあら、熱あるじゃない。休んでなさい」
 めぐみが空いているベッドを指差す。仕方なくタツキはベッドに横たわった。布団を被ったタツキに、めぐみが氷枕を手渡す。
「大人しくしててね」
 無責任にもめぐみは、席に戻って雑誌を読み始めた。小早川はタツキのいるベッドに近づき、そばにあった椅子に腰かけた。
「タツキちゃん、あのさ」
「帰れ小早川」
「やだー。なあタツキちゃん、いつも付けてるアレは? ネックレスみたいな……」
 タツキはそっと、自分の胸元に手を当てた。
「……無い」
 おそらく大介の家に忘れてきたのだろう。
「タツキちゃん、俺のやるよ」
 小早川が自分の胸元を探る。
「別にいい。それより小早川、それ校則違反」
「そんなこと言わずに、な」

 授業が終わるなり、理科室に大介が入ってきた。
「あ、野田先生」
 女生徒がうっとりとした顔で大介を見つめる。タツキのこととなると変態ストーカーになる彼だが、それさえなければ完璧な好青年なのだ。大介の欠点など全く知らない女生徒たちは、皆頬を赤らめ大介の周りに集まる。
「あの、鬼頭先生は?」
「先生なら保健室ですけど……」
 女生徒がそう言い終わらないうちに、大介が理科室を出て行く。
「あ〜……先生〜」
 先生に届け、といわんばかりに黄色い声が上がる。

「タツキさん!」
 保健室に駆け込んだ大介は、真っ先にタツキの手を握った。
「大丈夫ですか!?」
「うるさい」
 そう言って顔をしかめる彼女の顔色は、最後に見たときよりも良くなっている。
「元気そうですね……良かった……」
 起き上がったタツキに抱きつき、大介は頬をすり寄せた。
「重いうざいキモい」
「ふふ、照れ屋さんなんですね」
 調子に乗って、大介はタツキを強く抱きしめた。いい匂いがする。
「訴えますよ先輩」
「訴えるも何も、恋人同士じゃないですか僕達」
「その妄想癖、早い内に治した方がいいですよ先輩」
「妄想なんかじゃありません、現に昨日……」
「……先輩なんて大っ嫌い」
「せんせ、タツキちゃん嫌がってる」
「あぁ、すみません」
 タツキから離れ、大介は小早川の方に顔を向けた。
「ところで、貴方はどうしてここに?」
「タツキちゃんをここまで連れてきた。俺が看病してんだかんな」
 大介に見せつけるかのように、小早川はタツキの肩に手を回した。
「小早川」
「貴方が……僕も看病します」
「いいよ、俺だけで充分」
 2人は軽く睨み合った。うるさいわねー、とでも言いたげにめぐみが眉をひそめる。
「お前ら……」
 起き上がろうとしたタツキを、大介がそっと押さえつけた。
「ダメですよタツキさん。寝てなさい」
「……顔近いですよ、先輩」
「タツキちゃんから離れろォ!」
 騒ぐ2人を横目に、めぐみが雑誌を読み始めた。といってもその手は動かず、じっと男2人の様子をうかがっている。やがて視線も雑誌から離れ、キラキラと輝かせた目をベッドの方に向ける。3人はどういう関係なのか。側で繰り広げられる展開が楽しくて楽しくてたまらない。
「とにかく。後で迎えに来ますからちゃんと寝ていてくださいね」
「迎えにいくのは俺だよっ、野田っちは授業してろよー」
「貴方こそ授業ちゃんと受けてくださいよ」
「お前ら……」
 ベッドから這い出てきたタツキが、男二人の肩をつかんだ。
「タツキちゃん何か柔らかいもんが当たってんだけど」
「タツキさん安静にしてなさい」
「お前ら……出て行け。出て行かないなら嫌いになるぞ」
 めぐみの眉が元に戻り、再び雑誌をめくる。
 かくして大介と小早川は追い出された。

「すみませーん、タツキさんを迎えに来たんですけど……」
 通販雑誌を読むめぐみが、黙ってベッドの方を指差す。「勝手につれて帰れ」という意味なのだろう。
「ふふ、可愛いですねー」
 タツキの寝顔を眺め、大介は幸せそうに呟いた。
「僕達結婚したら、毎日この可愛い寝顔が見られるんですね……あぁ、可愛いですねぇ」
 ベッドのふちに腰かけ、大介はタツキの頬を軽くつついた。起きていれば絶対に見せない、あどけない顔にうっとりしていると、
「確かに可愛いけどー、あのあと吐いたわよ、二回も。何なのよあれ。つわり?」
 めぐみの探るような視線が大介に突き刺さる。
「違いますよ、二日酔いです。タツキさんったら、飲めないくせに無理するんですからね」
 そんな彼女も可愛くてたまらない。
「あらぁ、昨日一緒にいたのォ? うふふふっ」
 めぐみがケータイ片手にニヤケる。誰かに言いたくてたまらなさそうだ。
「あぁ、それ彼女には黙っててくださいよ……怒りますから」
 当然よ、とめぐみ。あまり信用しない方がいい。多分めぐみと仲の良い生徒に広まっていくのだろう。
「……ん」
 タツキが寝返りをうった。
「………………可愛いですねぇ」
 じっと眺めていると、タツキが目を覚ました。目が合う。ニッコリ微笑んでみせると、タツキはまたかといった風に目をそらした。
「おはようございます」
「……先輩、顔近い」
「気のせいですよ。さ、帰りましょう。心配なんで僕泊まってもいいですか?」
「嫌です」
「いいじゃないの。二人とも、ラブラブなんでしょー?」
「ですよねぇ。仲良しなんですから、お泊りくらいいいでしょう」
「ラブラブでも仲良しでもない……帰る」
 不満そうに顔をしかめ、タツキがベッドから出る。さりげなく支えようと大介が伸ばした手は、彼女にあっさりと払いのけられた。
「……すっかり、いつものタツキさんですねぇ」

「具合はどうですか?」
 タツキの家の前で車を停め、大介は助手席のタツキに声をかけた。もちろん返事は無い。つまらなさそうな表情で窓の外を眺めながらシートベルトを外している。
「タツキさん……貴女昨日、忘れ物しませんでしたか?……指輪のついた、ペンダントなんですけど」
 大介がそう言い終える前に、
「返せ」
 タツキが大介を睨み付けた。
「……大事な物なんですね……ナツメさんからのプレゼントですか?」
「……」
 その名前を出すと、タツキは口を尖らせて黙りこんだ。
「貴女、まだナツメさんの事……」
「着いたぞ。早く返してください先輩」
「わかりました。僕が着けますから、じっとしていてください」
「やめて下さい」
「いいでしょう? ……お願いします」
「……そこまで言うのなら」
 大介はタツキを抱きしめ、ペンダントをつけた。
「なっ……離れろ先輩っ。訴えますよ」
「タツキさん。何かあったら、僕に相談してくださいね。僕じゃナツメさんの代わりにはなれませんが、貴女の役に立ちたいんです……」
「……先輩……」
 大介はすばやくタツキの頬に口づけた。
「タツキさん、明日には元気になってくださいね」
「……先輩」
 タツキは大介の頬をつねった。そのまま横に引っ張る。
「痛いですよタツキさん」
「先輩こそ何なんですかさっきの」
「何って愛情表現ですよ」
「そんなもの要りませんっ」
 言い合いになる二人。姉の帰宅に気づいたらしくミツキが家から出てきた。
「タツキちゃん!!!」
「ミツキ……」
 車の中から出てきたタツキに、ミツキが抱きつく。
「晩ご飯は?」
「まだだよっ! あとね、まー君が来てるの」
「仲が良いんですね、お二人」
「そうだ、おにいちゃんも一緒に晩ご飯食べる?」
 ミツキが大きな瞳で大介を見つめる。
「いいんですか?」
「ミツキ……っ」
「ダメ?」
 ミツキが姉を見つめる。大きな瞳がかすかに潤んでいた。
「…………別に。好きにして」
 ミツキと大介が顔を見合わせる。
「わーい!! おにいちゃんも一緒♪」
「タツキさん……」
「……食事したらさっさと帰ってくださいよ」
「……はい」
大介は満面の笑みを浮かべてタツキに抱きついた。

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